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2012年4月10日火曜日

15大同族企業 | 阪急電鉄

皆さんは小林一三をご存じだろうか。

彼は稀代のアイデアマンであるといえる。私たちが知っているターミナルデパート、東宝、宝塚歌劇団は彼によって作られたものだ。


新しいビジネスをどんどん生み出した彼だが、もともとはかなりの怠け者であった。最初は行員をやっていたのだが、出勤をまずしないのだ。


そんな彼も一人の上司と巡り合う。岩下清周がその上司にあたる


岩下が証券会社をやろうとしたときに、一三も退職した。だが、日露戦争終結後の反動教皇で計画はとん挫することになり、結局一三は職がなくなる。

その後は、岩下の親友の紹介で、阪鶴鉄道の監査役に就任する。しかし、鉄道国有法によって国有化されることになるのだ。

その後は、同社の路線設置に関して、出資者があつまらず解散の危機を迎えることになる。そこでアイデアマンである一三の出番だ。



需要のあるところに鉄道を敷くのではなく、鉄道を敷いてからその沿線に需要を作ればいい。



この戦略を打ち出したのだ。これが見事に成功した。

この箕面有馬電気軌道が敷く鉄道の終点には宝塚があり、そこは温泉地であった。そこに目を付け土地を買収し、宝塚新温泉を設立する。そしてそこの中に室内水泳場や動物園、宝塚唱歌隊などつくった。これがのちの宝塚歌劇団になるのだ。

さらに、東京進出を計画し、1932年に株式会社東京宝塚劇場を設立した。

1936年には、映画製作所と共同出資で東宝映画配給株式会社を設立。

1943年には、株式会社東京宝塚劇場と東宝映画株式会社が合併し、東宝株式会社となる。

東宝というのは、宝塚歌劇団の東京拠点という意味なのだ。


今ではあたりまえのターミナル・デパートは一三が考えたものだ。

交通の便がよい駅に百貨店を併設すれば儲かると考え阪急マーケットを開業する。さらには、そこで日用品の取り扱いもすることになる。これも大盛況を極めた。

どこよりも良い品を、どこよりも安く売る。

これができたのは、
経費が掛からず、広告費が少なくて済み、現金売りを主としていて、遠方配達の経費も省けるからだ。さらには、阪急鉄道の副業であり、家賃がいらないからと言っている。


そして例によって、GHQの解体、介入が始まる。


政治的な思想弾圧が禁止され、読売新聞社、NHK、東宝撮影所の有力メディアがターゲットになった。


米軍から戦車7台をはじめとする舞台が来るほどの暴動になっている。


そのせいで経営は赤字になるのだが、それ以降は、7人の侍や、ゴジラなどで大ヒットを飛ばした。

1950年代から95年にかけて、小林一族を支えたのは清水雅である。かれは最初京阪神急行電鉄監査役だった清水栄次郎の二男として生まれる。

その後阪急電鉄常務を経て、阪急百貨店設立とともに社長に就任した。彼は一三のお気に入りの側近で直接一三の教えを受けることが多かった。


かれの人を見抜く目はするどく、人事がことごとく成功したようである。
その後は、小林公平が返球電鉄取締役など経験して、副社長を経て社長になる。そして、1988年に阪急ブレーブスをオリックスに売却したことで脚光を浴びる。

その後、バブルに大型不動産投資をして失敗。辞任した。


そして、その長男である、小林公一が、阪急電鉄に入社しつつ、宝塚歌劇団の演出家・プロデューサーとして活躍している。

阪急電鉄は、あまり同族へのこだわりはなかったようである。


ちなみに、東宝社長は松岡功であるが、その息子が、元テニスプレイヤーである熱い男、松岡修三である。


こんなこともあるんですねー。










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